由緒

鎮座地 名古屋市西区上小田井1丁目172番地
御祭神 大名持命おおなもちのみこと (大國主命おおくにぬしのみことの別名)
合祀 天香香背男神あめのかがせおのかみ牽牛星けんぎゅうせい織女星しょくじょせい
  • 延喜式神祇巻えんぎしきじんぎのまきの第九巻に尾張國山田郡十九座ノ内十七座目坂庭神社さかにわじんじゃとあるこれが今の星神社ことです。 延喜式えんぎしきとは平安時代中期905年~927年に編纂された格式かくしき律令りつりょうの施行細則)で三代格式の一つである〕
  • 尾張本國帳に従三位坂庭神社じゅさんみさかにわじんじゃ 天神とある。是も星神社のことです。
  • 坂庭星社さかにわほししゃでは、毎年7月7日(旧暦)境内に土で壇を作り綺麗に清めて、天香香背男神あめのかがせおのかみと二柱(牽星けんぎゅうせい織女星しょくじょせい)を合せてお祀りして、祭典の時にお酒を祭庭にそそぐ云々、故に酒庭星社さかにわほししゃと呼ばれていました。
  • 当社の星祭は大変古くから執り行われていました。 仁和年中(885年~889年)大江音人の子で政盛という人が、訳があって当社の近く(現在の上小田井)に住んでいました。才能のある人でしたが思うようにいかなくて困っていました。 そこで、朝晩当社の神様に祈り続けて三年目に京の都に帰る事が出来ました。 是より前に妻がいまして、一人の男子を生みました。大江五郎政輝と言いました。(旧町名の五郎庄ごろしょうきりりというのは、当時の五郎氏の邸宅が在った所です。) 政輝も、星神社を父と同じように崇敬して文才も有り筆道にも長けていました。成人して後に、又京都に帰り官職に就きました。京に帰るとき、神様に誓って言いました。「私は、此神社の祭に逢い幸に志願を達することが出来ました。どうか皆さんの為に神様をお祀りして下さい。」と別に新たに社殿を建てました。是則ち大江社であると言われています。
  • 弘安三年(1280年)大勢の軍勢が神社の近くまで押し寄せて大火事が起こって当社は全て焼失してしまいました。 その為神社は衰微して祭典を執り行うことも出来なくなりました。 暦應四年(1341年)になりまして、右近中將藤原朝臣實秋うこんのちゅうじょうふじわらのあそんさねあきがこのことを嘆いて社殿・廻廊・拝殿・樓門等を新築して神社を再建しました。そして星祭等の祭典も復興しました。
  • 神社の所領は四町八反も有りました。(神官・社家両方の家が有りました。)信長公の時代まで有ったそうですが、その後太閤殿下の時代に残らず召し取られたのです。
  • 当所の城主で小田又六おだまたろく(信長公ノ時代)が城内に井戸を掘ったので、坂庭の坂も字をとり、村名を坂井戸と言うようになりました。 其後又六殿のうじの字小田おだの下に井の字を添へ小田井おたいと言うようになりました。 是より坂井戸さかいど村は小田井おたい村の惣名そうみょうとなり、今の坂井戸は当時のおもかげを残すものです。

(平成26年12月横書きに改訂)