七夕伝説

その昔、小田井村(おたいむら)(現在の西区上小田井あたり)に一人の若者が暮らしていました。そして、その若者は田幡村(たばたむら)(現在の北区金城町(きんじょうちょう)あたり)に住む娘と出会い、恋に落ちたのです。

恋に落ちた二人は、その後も逢瀬(おうせ)を重ね、その日も再会を誓い合っていました。

 

しかし、約束の日、村はまれにみる大雨で、いつもの「稲生(いのう)の渡(わた)し舟」は使えないので泳いで渡るしかありません。しかし、庄内川は今にも堤防(ていぼう)が決壊(けっかい)しそうなほど増水(ぞうすい)していて、とても泳いで渡ることなど出来そうに無い状態(じょうたい)でした。若者はとても悩みました。「娘はきっと自分を待っている。」意(い)を決した若者は、庄内川に飛び込みました。普段(ふだん)は緩やかな流れをたたえる庄内川も、その時ばかりは龍(りゅう)が暴(あば)れるがごとくの激流(げきりゅう)。「自分を待つ娘のところに行きたい。」その一心で、必死(ひっし)に泳いで渡ろうとしたのです。

 

水の勢いは増すばかり。その流に抗(あらが)い、必死で娘のもとへ向かう若者。しかし、若者は力尽き、ついに濁流(だくりゅう)に飲まれてしまい、娘のもとへたどり着くことは出来ませんでした。
数日後、娘に届いたのは枇杷島(びわじま)(小田井村の下流の村)あたりに若い男の水死体があがったという悲しい知らせでした。

 

娘は悲しみに暮れました。そして、傷心(しょうしん)のあまり、庄内川に身を投げてしまったのです。
天に上る星となってお互いを見つめ輝きあう二人。村人たちは、牽牛星(けんぎゅうせい)は小田井村(おたいむら)の若者、織女星(しょくじょせい)は田幡村(たばたむら)の娘だと思ったそうです。

庄内川を天の川にみたてたこのような悲しい七夕伝説(たなばたでんせつ)が残っています。

星に願いを

由緒記(ゆいしょき)に、

「毎歳(まいとし)秋七月七日(旧暦)社内ニ祭筵ヲ定メ土壇ヲ築キ灑掃(れいそう)シテ 天香々(あめのかが)背男(せおの)神(かみ)ニ二(ふた)星(ほし)ヲ合セ祀(まつ)ル 時ニ酒ヲ祭庭ニ灌(そそ)グ云々」

とあるように、土で台をつくり四方に竹を立てて三柱(天香々(あめのかが)背男(せおの)神(かみ)・牽牛(けんぎゅう)星(せい)・織女(しょくじょ)星(せい))の星の神様を祀(まつ)り、お酒を流しかける神事(しんじ)を行っていたようです。当社の短冊にはこの三柱(みはしら)の神様のお姿を刷(す)り上げてあります。

 

七夕伝説

 

七夕は、桃(もも)の節句(せっく)や端午(たんご)の節句(せっく)と並ぶ五(ご)節句(せっく)の一つで七夕(たなばた)の節句(せっく)として奈良時代から宮中の行事としておこなわれるようになり、江戸時代になって民間に広まり笹竹(ささだけ)に願(ねが)い事(ごと)を書いた短冊(たんざく)をかざるようになったようです。

 

当社には、牽牛星(けんぎゅうせい)と織女星(しょくじょせい)がお祀(まつ)りされており、毎年8月7日の七夕祭は、1,100年以上前の仁和年中(にんなねんちゅう)より行われております。

 

今ではこの辺りで夜空を見上げてもほとんど星を見ることはできませんが、当神社の八月七日の七夕祭にせめて短冊に願い事を書いて笹竹に飾り、静かに手を合わせてみてください。きっとその願いは星の神様に届くことでしょう。